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2005-08-22 01:37  <蝉時雨>
蝉の夜鳴き。夜の帳の中でどこからもなく聞こえてくる蝉の小さき声は、儚さと同時に不思議な空間を生み出す。
そして、夏の情景を情緒的に表す蝉時雨という言葉は、とても美しい。
海坂と蝉時雨。雑木林と蝉時雨。そして、邂逅と蝉時雨。蝉時雨という言葉は、夏の後景を如実に映し出す。
かつて、夜の帳の中で蝉が羽化する瞬間を目の当たりにしたことがあった。そのほんの数時間は、未だに忘れられない神秘的な瞬間だったといえる。

祖父の家。その格調高き和風の家を訪れた時は、必ずといってもよいほど蝉時雨だった。
そして、当時団地暮らしだった自分にとってそこはとても非日常的な場所であり、訪れるのを楽しみにしていた記憶がある。
魅力的な祖父や祖母という存在もさることながら、叔父が所持していたたくさんの手塚治の漫画、冒険心をくすぐる日本的な庭、
ザリガニやアメンボが生息していた田んぼ、祖父に連れられていった九頭竜川・・・
それらの新鮮な体験は、原風景として今もなお心に残されている。蝉が羽化する瞬間を目撃したのは、そんな祖父の家を訪れていた時だった。

誰がどのようにしてその光景を発見し、どのような経緯で自分がそれを目の当たりにすることになったかは定かではない。
しかし、漆黒の暗闇の中で光を放っているかに見えた羽化中の蝉の白さは、なまめかしくあると同時に幻想的だった。
生命が生まれ変わる瞬間の美しさが、こんなにも魅惑的だったとは。そこに居合わせた誰しもが、その経緯を固唾を呑んで見送った。
蝉の光の世界での一生は、儚いくらいに短い。長き時を光の届かない地面の中で過ごし、光の世界へと飛び立つために羽を獲得する。
まさにその瞬間を、目の当たりにしてしまったのだ。暗闇の中でひっそりと行われていた秘密の瞬間を。それは、とてもとても神秘的な瞬間だった。

蝉時雨。生命を謳歌するその鳴き声は、美しい。
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by note_R | 2005-08-22 01:37
2005-08-14 19:21  <一流と三流>
一流でいることと三流でとどまること、どちらが幸福だろうか?
これはだいぶ以前のことになるが、sakuとgomeで飲んだ時に話題として持ち上がったこと。
だいぶ以前のことになるといっても、このブログ上では前回の投稿での話になってしまう。
sakuはこの問いに対して、三流は知見が狭いから幸福である、という。確かにその通り。
知見が広がると物事に対する見解が複雑化し、悩みが増大する。無知ほど幸せなことはない。
また、知性は暴力に弱い。ギャル言葉に破壊力があるのは、あらゆる世間一般の規範が通用しないからだろう。
容易に規範を逸脱できる無知は、自由奔放だ。それ故に、それはユーモアとなると同時に、攻撃性を持つ。
知見を広く網羅しているもの、つまり、知性を持つものは、そういった攻撃性にめっぽう弱い。
そういった意味で、確かに知見が広いのと狭いのとでは、圧倒的に狭い方が幸福だといえる。
そして、sakuと同じように僕も三流の方が断然幸福であると思っている。でも、その理由はsakuのとは少し違う。
三流は、妥協という安易さの積み重ねの結果だ。つまり、三流であるというのはどこかで何かを妥協しているのだ。
安易な方向に流れているから楽であり、苦しみや葛藤を生み出さない。それが、僕が三流の方が幸せだと考える理由だ。
では、なぜ一流と呼べる人々は自らがそうであることを望むのだろうか?
それは、彼らの中に評価されたいという願望が、基本的欲求として存在するからだ。
何よりもそれが原動力であり、そのために彼らは葛藤する。それが、一流を一流たらしめている所以でもある。

先日、ゼミ合宿の学部4年生の卒業制作の中間発表の中で、院生として意見を求められる機会があった。
その中間発表では、建築的な提案にまで昇華されてない案が多々あったが、この時期でそれは仕方がない。
また全体的に、問題点をより明確にし、破綻のないように論理的根拠を構築していくことが不足要素として指摘された。
しかし、それももちろん重要な要素だが、問題はまた別なところにあると感じた。
それは、何を評価してもらいたいのか見えてこない案が多かったということ。その案の「 売り 」が、明確に見えてこないものが多かったのだ。
「 売り 」は何でもいい。問題点を解決するための手法や空間が独自で斬新なものであったり、問題点そのものに新規性があってもいい。
また、計画的に心地よい空間の提案も、十分評価される要素だろう。バリアフリー、ユニバーサル・デザインも当然それに含まれるだろうし。
いずれにせよ、その案の評価ポイント、つまり「 売り 」を明確にしなければ評価はされにくい。
そして、その「 売り 」を見出すのが最も困難な作業なのだ。それを克服できているのか、いないのか。
卒業制作における一流の案と三流の案の違いは、少なからずともそこにあると思う。

評価されたいという基本的欲求がなければ、一流にはなりきれない。
そして、評価されるためには安易な方向に流れずに、葛藤する必要がある。
一流でいることと、三流でとどまること。あなたなら、どちらを選択しますか?どちらでもいいと思うけどね。

あと、もう一つ個人的に感じること。それは、孤独に耐えられない人間は一流になりきれない、ということ。
これもまた、それはそれでいいと思う。
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by note_R | 2005-08-14 19:21