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2006-04-03 15:28  <受難>
昨日は、酷い日だった。ある新聞社の一般教養試験があったんだけど、酷い日だった。
この新聞社、受けてみようかな位の軽い気持ちでエントリーしたんだけど、酷い日だった。

試験開始時間の30分位前に、会場の最寄り駅に着いたまでは良かった。しかし、そこから歯車が狂い始める。
スーツ姿の集団が、自分が思い込んでいる会場の方向と逆の方向に向かっているのは分かっていた。
でも、「集団心理とは怖いな、みんな方向を間違えてるよ。」と、自分が考えている会場の方向に向かう。
しばらく歩いていると、会場らしき大学が見えてきた。着いた、と思ったらそれは違う大学だった。
おかしい、と思ってさらに会場を探しているうちに会場の最寄り駅の一つ先の駅に着いてしまった。
それは、会場とは全くの逆方向の駅だった。騙された。

あせった。その時はすでに試験開始時間の5分前。とりあえず、この駅から試験会場の最寄り駅まで電車で戻ろう。
走った。最後に全力で走ったのがいつだったか忘れてしまっていたが、全力で走った。
しかし、乗るべき電車のホームがこれまた遠い。約1分間全力で走り続けた。
なんとか電車に乗る。このときすでに試験開始4分前。間に合わないな。

再び試験会場の最寄り駅に着いたのが、試験開始時間2分前。
今度は先ほど集団が向かっていた方向に素直に向かい、全力で走った。同じ境遇(?)の受験生3人で共に全力で走った。
会場が見えてきた。入り口に着いたと思ったら、「受験する方は正門からお入り下さい」と立て看板。また、騙された。
「はぁ?ここは正門じゃないのかよ。正門は、駅に近いとこにつけるでしょ。普通は。」
と心の中で愚痴を言いつつ、仕方なしに正門に向かう。これまた遠い。もう既に開始時間は過ぎている。

ようやく会場に辿り着いたら、試験はまだ始まっていなかった。遅れたのは自分だけだった。
人のあまりの多さにビックリすると同時に、センター試験を思い出した。まるで、大学入試の会場みたいだ。
ぎりぎりセーフと思ったのも束の間、着席と同時に「それでは始めてください」と試験官。
休む暇はなし。そして、90分の試験と60分の作文を何とか乗りきる。作文のテーマは、「ライバル」だった。

手ごたえ全くなし。疲労は限界。そして、追い討ちをかけるように帰り道は嵐。
自分だけに風雨が集中して当たる。辛すぎるこの仕打ち。弱り目に祟り目。限界は既に超えている。
寒さで傘を持つ手の感覚が麻痺しているのが分かった。早く家に着いてくれ。

何とか家に着き、安堵する。こんなに酷い日は、もうゴメンだね。
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# by note_R | 2006-04-03 15:28
2006-01-03 01:30  <作家の肖像>
最近、必要に駆られて過去の自分の設計作品を見直している。また、直に他人の作品の発表を聞く機会もあった。
その中で、作家性について考えるようになった。

アートとデザイン、芸術と文化。これらを創造するのが作家である。
アートは、自己完結型の創造だ。アーティストは、己のメッセージを作品を通じて社会に訴えかける。作品に対峙する人は、それを受容することしかできない。
デザインは、社会のニーズと同居する。デザイナーの真価は、ニーズを斬新で美的な商品に転換し、それを社会に還元していくところにあると思う。
作家と他者との対等な相関があるか否かに、アートとデザインの差異はある。
その差異はまた、芸術と文化の相違に近似する。芸術は高尚なものであり、一般の者はその審美に触れることによって豊かさを享受する。
それに対し、文化は人間の営みの中で固有のアイデンティティが形成されたものだ。そこでは、多くの人間が作家となる。
芸術と文化の差異は、それに接する人々が創造の傍観者となるか当事者となるかの違いにある。

アートとデザイン、芸術と文化。いずれの場合も、作家と他者(社会)との相関、作家という主体のありかの相違はあれども、
形而上を創造する点においては共通している。作家は、形而上を創造しなければならない。否、創造するものである。
では、作家性とは一体何なのであろうか?作家性とは、作家の独自性である。ということもできるが、それは正確ではない。
なぜなら、いずれの作家も他の作家の作品(他のモノ)を下敷きにして自身の作品を構築しているから。完全なるオリジナリティなど存在しない。
しかし、作家としての個性を、言い換えるならばアイデンティティを作品に表出することは可能だ。
作風を容易に言葉にできず、既に知られていない何かを作品から見出せれば、その作家はアイデンティティを獲得しているといえよう。
容易に言葉にできないような作家のアイデンティティが、作家性である。

その意味で、デザインと文化は作家性を要しない。また、アートと芸術は、作家性が色濃く表れる。
では、建築はどうだろうか?建築に、作家性が必要なのだろうか?
承知かどうかは知らないが、建築は純粋芸術ではない。建築では、彫刻やアート作品と違って実際にそこに人が入り、生活を行う。
また、文学や音楽と違って、現実のものとして形になる。さらに時代によっては、宗教や国家のシンボルとしての役割を担う。
つまり建築は、技術、文化、社会、ユーザーといったあらゆる事柄のニーズに応答しなければならない統合芸術であるといえる。
建築家は、アーティストである以前に、デザイナーでなければならないのだ。建築に作家性は不可欠な要素ではない。

しかし、作家性なき建築家が、歴史に名を残すことは稀である。ミースもコルビュジエも社会的要請と巧く結合したデザイナーであったが、
と同時に作家としてのアイデンティティを獲得し、それによって形而上を体現できた建築家だった。
建築を評価する時に、優劣の差異が生まれるのは作家性の有無にもある。社会的要請に応答しているだけでは、一介の設計者にすぎない。

と、正月早々、自分なりの建築作品の評価軸を稚拙ながら脈絡も無く考えてみた。ここまで読んで付き合ってくれた方、ありがとうございます。
そして、新年明けましておめでとうございます。
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# by note_R | 2006-01-03 01:30
2005-12-29 19:05  <気晴らし>
昨晩は、毎年恒例の教授宅の忘年会に出席。去年とは一味違うメンバーだった。
もっけんは個性的なメンバーが多い。にしぐちクンといしはら軍団の今後に期待。

で、その後Malco宅に居候。彼が設計した病院についていろいろと聞く。
贅沢な予算と割と広めの敷地という好条件にもかかわらず、短期の設計期間という制約と、
クライアントである彼の親父のユニークな要望で、思い通りの空間をつくりあげるのが難しかったとのこと。
実際には、諸機能を上手く敷地内に当てはめていくことで精一杯で、コンセプトも何もなかったらしい。
現在は、基本計画を終え、木造の骨組みが続々と立ち上がっている段階。あと一ヶ月でその他の図面も仕上がる予定だそうです。
ここまでくるのに大変だったんだろうな~と思う。でも、幸せ者です。親戚の伝手で設計できるなんて。
(あと、彼が現在住んでいるマンションにも驚いた。家賃月○0万円。ありえないでしょう・・・。超快適に熟睡。)

日付変わって今朝、Malco宅から直新宿に行って、久しぶりのお買い物。いや~いい買い物ができた。(Link:Queen Classico
高校時代に、部活合間のリフレッシュとして仲間とよく買い物にいっていたことを思い出した。
近頃は精神的に余裕がなかったから、気分の開放にうってつけだった。

次は、CDを買いたい。新鮮さが必要ですな。何かお勧めがあったら教えて。
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# by note_R | 2005-12-29 19:05
2005-12-27 17:22  <輝ける都市>
東京は、時に信じられない位の美しい光景を生み出す。
普段は何気なくやり過ごしていた電車からの東京の光景が、傾きかけた陽光に映し出されて異世界のようだった。
都市型ゴルフ練習場のネットが斜光の中でゆらぎ、密集した建物が光彩を放っていた。東京全体が輝いていた。

現在の東京は、かつてル・コルビュジエが思い描いた夢の中の近代都市「輝ける都市」とは程遠いと思いつつも、
斜光に映し出されたその姿に希望を見た。ぎすぎすした東京も、悪くはない。
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# by note_R | 2005-12-27 17:22
2005-12-23 01:03  <夜流し>
最近、寝つけが悪い。なので、3冊の本をかわりがわりにベッドの同伴としている。
本を読んで頭を疲労させてから、眠りについている。その代わり、朝起きるのつらいけど。
ということで、今日は本の紹介。興味があれば読んで下さい。

「デザインのデザイン」 原 研哉
「小説の自由」 保坂 和志
「美しい都市をつくる権利」 五十嵐 敬喜

どれもこれも結構面白い。眠れない夜にはうってつけ。どうぞお試しあれ。

【追記】
もう一冊追加。かなり面白そう。期待大。

「苔のむすまで」  杉本 博司
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# by note_R | 2005-12-23 01:03
2005-12-17 14:04  <変容>
昨日は、雑用があって我が母校(小学校)を訪問し、取材をした。
その後、うろ覚えであるその頃の記憶を反芻しようと思い、昔暮らしていた街をぶらついてみた。

かつて大きく感じていた母校は、小さくこじんまりとしていた。
取材では、当時の大人たちはこのようにして見ていたのか、と質朴な学童たちの屈託のない言動に好感を覚える。
しかし、学校にはその頃教わっていた先生は誰もいなく、皆が知らない人ばかりだった。
長い間身を置いていた校舎の中に居るはずなのに、自分は全くのよそ者だった。
取材の後、かつての通学路をかつての我が家まで歩いてみた。
高円寺を離れてから、何年が過ぎたのだろう。久しぶりの古巣は、変わってないようで少しずつ変化しているように感じた。
かつて暮らしていた社宅も、今となっては姿を消し、現代的な分譲集合住宅へと化していた。
よく野球をし、球を蹴っていた社宅裏の緑地もすっかり無機質なアパートとなり、
社宅横の歩きづらかった砂利道も、綺麗にアスファルトの道路に整備されていた。
時間の都合もあって高円寺をゆっくり回る余裕もなく、取材した内容を簡単にメモ書きにするため、そこからすぐに高円寺図書館へ向かう。
高円寺図書館での昔の記憶は、あまりない。公園などで遊んだ記憶はあるが、図書館で勉強した記憶がない。
結果的に、今回訪れた高円寺では、かつて遊んだ友人にも見知りにも会わなかった。
知らない世代、知らない人々が暮らす高円寺は、もうホームタウンと呼べないのか。

その後、所用があって一路トーキョーの中心、新宿副都心へ。
街も人も、記憶とは裏腹に変容し続ける。超高層のビルの谷間で、自分も変化していることに気がつく。
これまでとこれから。全ては流され、変容していく。
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# by note_R | 2005-12-17 14:04
2005-11-28 00:55  <結>
結と書いて、ゆいと読む。世界遺産である合掌造り集落に古くから伝わる風習のことだ。
急傾斜の茅葺屋根を持つ合掌造り家屋は、屋根葺きと呼ばれる普請を要する。
結とは、その普請を村民総出で扶助する慣習を言う。合掌造り集落に伝わる独特の社会制度。
そのような伝統的な相互扶助の結によって、唯一無二の合掌造りは継承されてきた。
白川郷と五箇所地方に存続する合掌造り集落は、1995年に世界文化遺産に登録された。
結によって合掌造りが維持されてきた「生きた遺跡」としての価値が、「世界の宝」として認められたのだ。
村民のわかちがたい絆が、「世界の宝」としてのかけがえのない普遍的価値を育んだ。

結は、建築の根源的な価値を表している。建築のあり方は、本来ならば結のようなものなのかもしれない。
絆によって「生きた建物」を構築していくこと。それが最も重要なのかもね。
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# by note_R | 2005-11-28 00:55
2005-11-26 19:21  <慈雨>
「行為は、無償であればあるほど美しく、無用であればあるほど真実となる。」
小林秀雄による言葉だ。小林秀雄は、殊勝な行為を諦観している。
しかし、現実の日々の営みの中で、美しく真実のみを見据えて生きていくことは難しい。
一般の人ならば、実利を優先し、無用な行為を切り捨てるだろう。切り捨てなければならないだろう。
そして、無償な行為を忘れがちになるだろう。慈悲の気持ちをつい忘れがちになるだろう。
とはいえ、人間誰しも慈悲の気持ちを持ち合わせているはずだ。
日常の中でつい忘れているだけ。ただ、埋もれた慈悲の気持ちを思い出させるようなきっかけが必要なだけ。

そのようなきっかけになればいいなと、Linksに各種の募金の受付を追加しました。
無償な行為のきっかけにして下さい。わずかな善意も、多く集まればきっと大きな力となるはず。
苦しむ人々に、恵みの慈雨を。
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# by note_R | 2005-11-26 19:21