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2005-06-30 17:47  <心に残る映像詩 -自然と共生する居住形態->
東京の中にありながら、僕が暮らす土地の近くには豊かな自然風景がとり残されている。
その自然風景は、閑静な住宅街を彷徨っていると何の前触れもなしに忽然と現れる。
宅地化によって失われたかつての農村の光景が、時間を止めたままであるかのように住宅街の中に遺されているのだ。
それらの光景の中に身をおいていると、ある映像の世界が自然と心の中に思い浮かんできた。
恐らく、その場所の用水路からの水の流れる音や水田の風景が情景となってその記憶を蘇らせたのだろう。

「 里山 命めぐる水辺 琵琶湖畔の映像詩 写真家・今森光彦の世界 」 NHKハイビジョンシリーズ

里山とは、水田や畑を中心として雑木林や湧水などが点在する、いわば自然と人間とが共生関係にある環境のことである。
この放送番組は、写真家である今森光彦がスチールカメラをハイビジョンカメラに持ち替え、
三五郎という漁師の営みと琵琶湖畔に息づく動植物との関わりを背景として、あしかけ2年をかけて里山の四季を撮影したものだ。
この放送番組を目にしたのは偶然だった。見たのがいつだったかは定かではないが、恐らく見たのは再放送だったと思う。
しかし、いくばくの時を隔てた今もなおその映像の記憶が残っていたのだから、このドキュメンタリーのクオリティーの高さは言うに及ばない。
この作品は、懐かしさと里山の四季の移り変わりを映し出す映像美とが共存する名品である。

この映像世界が描くのは、言うまでもなく豊かな自然と生命との共生だ。
高い評価を受けている写真家の感性が映し出す里山の美しい映像詩も印象的なものだったが、
中でも特に興味を引いたのは、「 かばた(川端) 」という住居の中に水路が引き込まれた居住形態の存在だった。

この映像世界の舞台となったのは、主に琵琶湖西岸の新旭町と東岸の米原町である。
そこでは、まちなかに琵琶湖からの水路が導かれ、その水路が民家脇の道路と一体となってまちのインフラストラクチャーを構成している。
「 かばた(川端) 」は、まちなかを流れる水路を住居の中に取り込んでつくられたため池のことで、洗濯、炊事、飲み水といった生活の一端を担っている。
自然のため池を中心とした「 かばた(川端) 」空間は、現代的な居住形態に置き換えるならば、洗面場、キッチンということになろう。
しかし、完全に外の世界(自然)と分離された現代的なそれらとは違い、「 かばた(川端) 」は完全な土間空間である。
そこでは、人間の営みと琵琶湖に通じる水路とが一体となり、まさに疑いようのない人間と自然との共生が展開されるのだ。

三五朗は、琵琶湖で魚を獲る老人の漁師であり、この映像作品のストーリーはこの人物の描写を軸として展開されていく。
作品の中で「かばた(川端)」のシーンは、その三五郎という漁師の営みを追うことでストーリーの節節に織り込まれている。
「 かばた(川端) 」のため池にはコイやヨシノボリなどの水生生物が生息し、三五郎夫妻が食器を洗った後の食べ残しを餌としている。
それらの生物がため池の不要物を餌とすることで、水の浄化が自然に行なわれるというわけだ。
また、夏にはため池の水の冷たさが自然の冷蔵庫となり、野菜やスイカをため池に入れていくおくことで自然冷却が可能となる。
それによって、電力による冷蔵庫のものとはまた違った格別のおいしさが得られるに違いない。
また、冷たい水が流れ込む「 かばた(川端) 」は夏も涼しい。そこは、現代のテクノロジーとは無縁な省エネ空間なのだ。

「 かばた(川端) 」という居住形態に見たのは、究極のエコロジーの形である。それはまた、技術(テクノロジー)とは対極に存在する居住形態であった。
かつての日本の大多数を占めていた農村は、「 かばた(川端) 」のように自然と人間とが共生するエコロジカルな土地であったに違いない。
しかし、人工物が大多数を占める現代都市においては、自然との共生などといってもそれを体感することは困難である。
そこでは、便利なテクノロジーがあふれ、人々は快適性と利便性を追い求める。エコロジーという視点は、ついつい忘れがちになるのだ。
だからこそ、「 かばた(川端) 」のような存在は重要なのだ。かつての素晴らしき共生関係を顕彰するものとして。
by note_R | 2005-06-30 17:47
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